雑文

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国語力

 ゆとり教育のせいで日本の子供の学力が低下している、ということがOECDのテストで明らかになったのは先日ですが、今度は岩波書店の調査で「児童の国語力が低下している」と実感している教師が九割に上った、という結果が出たそうです。

 なにをいまさら。当たり前にも程がある。

 そもそも「ゆとり教育」なんてものを導入した時点で学力低下は目に見えた結果だったんじゃないですか、それを実際に数字が上がってきていまさら慌てるっていったい何事なんですか、と。知識と頭の良さは別といいますが、因果関係がゼロだと思っているとすればそれはよほどのお馬鹿さんでしょうに。

 授業の時間が少なくなる、知識が減る、学力が下がる。これはまったく当たり前のことです。それどころか頭だって悪くなるに決まっている。なぜか。「考える方法」は「知識」だからです。天才は除くにしても、一般人の思考の方法は過去に当たるのが極めて一般的で妥当なものでしょうに。

「数学なんて大人になったら使わないよ」という中二病的発言を本気している人もたぶん少なくはないんでしょう。なぜそれが「いま子供である」彼らにわかるのか、私にはまったく理解できない。それは「数学を使わない人生」を選択することは可能でしょう。ただ、それは同時に「数学を使う人生」を歩む可能性を中学生の段階で捨ててしまうことを意味する。もっと言えば数学を使わない人生なんてほとんどない。使わなくてすむことはあったとしても、使っていればより良い結果を得ることがほとんどです。

 そもそも学問の基礎は言語にある。国語を知らない人間がどうして社会を論ずることができるものか。ただでさえ読書離れが叫ばれているのだから、せめて教育で国語を愛してあげてほしいと思う。

 もっとも、私も広い意味では「ゆとり教育」に含まれた世代なので、偉いことは言えない。でも私は周りの同年代を見て、尊敬するよりがっかりすることのほうが多い。どうしてこの人たちはこんなことさえ知らないんだろうって。

 向上心、向学心がないひとは、私は好きじゃない。そう思うのです。

 coccoの新曲「ジュゴンの見える丘」が非常に良い感じです。なんで売れないんだろう。
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前回タイトルつけるの忘れた

 留守にしていたのと私事がごたついていたのとで、ここ一週間ほど資料を漁ったりする以外に本気でネットに繋いでなかったのですが、久しぶりに一日が二十四時間であることを発見しました。え、なに、ニコニコとかmixiとかがないとこんなに時間って使えるんだ! と思った。

 一気呵成に溜まっていた雑事を片付けたので、いまはちょっと息がつけるようになりました。これくらい神様なら一瞬で終わらせる仕事なんでしょうけれども実は私は神様ではないのでこんなに時間がかかりました。いままで黙っててごめんね。

 ということでまた12月がやってきました。びっくりする。時の速さにびっくりする。このまま行くと明後日には来年になってるんじゃないか、という気さえする。まだなにもしてないのに今年が終わるなんて……。理不尽だ!

 毎年この季節になると焦るんですが、なにに焦っているのかの正体がわからないので結局は「また来年頑張ろう」で終わります。

 じゃあ、また来年頑張ろう。

 最近の小説では伊坂幸太郎の新刊と乙一の新刊がおもしろかったです。あとケアルックの『オン・ザ・ロード』の新訳。ちくまがいまさら日本近代文学全集文庫なんか出し始めたのでそこらへんも読んでます。収録作品の七割以上既読なんだけど。芥川とひゃっけんは読む価値がある。尾崎翠もいいなあ。漫画ではリアルの七巻がすばらしかった。あと萩尾望都の完全版シリーズが良すぎる。

 最近はアイドルマスターの動画がかわいく思えて仕方がない朱空です。こんばんは。オタク文化に興味のないひとはさっさと帰れ! ばーか!

 という幼児退行を見せていることに理由は特にありません。最近はゲームといえばアイマス(未プレイ未所有)、漫画といえばヘルシング(全巻所有)(最新刊おもしろいよ)、アニメといえばクラナド(原作未プレイ)な生活です。性別どころか人格を疑われかねないラインナップ。

 そもそも私のことを「小説オタク」と思い込んでいるひとが多すぎるので弁解しておきますが、私はどこに出しても恥ずかしくない立派なオタクであって、本はその知識の一部にすぎないのです。弁解というか恥の上塗りになっていることには気づかないふりをする(大人の知恵)(大人って汚い)(へへへ)。

 だいたいですね、私のような古き良き「隠れオタク」に言わせれば最近のオタク気取りどもの甘さは目に余る。昔は(といっても数年前であって、私は断じておばさんではない)オタクと言えば白い目で見られるものだから、自分がオタクであることを必死に隠したものです。運動部に所属し、それなりにオシャレ雑誌にも目を通し、パソコンなんて滅多に触ったことありませーん、とか平気でほざいたものです。それがいまや……。

 今になって「電車男」の功罪を問うのは馬鹿馬鹿しい。そもそも時代がオタクに追いついたという認識が正しいのであれば、我々は流行を先取りしていたのであって、別にやましいことはなにもしていない。むしろ平成以前からのオタクはパイオニアとして胸を張るべきなのだけど、「隠れ」の習性が身についた彼らは悲しいかな、いまだにその知を振りかざすことを潔しとしない。これぞオタクの鏡、私世代のオタクの一部にはまだその魂が残っているものの、大部分はそうでなくなってしまった。もちろん私も彼らのフォロワーに過ぎず、偉そうなことはいえないのですが。

 三次元で平気でネットの言葉を使う、電車のなかで恥ずかしげもなくオタクトークをする、挙句の果てには「オタクの文化を知っているのもステータスのひとつ」といわんばかりに覚えたての知識を吹聴する。失笑すら禁じえないのは、どっからどう見ても「オシャレに命かけてます」みたいな人間(男女問わず)が「オタクにも理解ある私(おれ)かっこいい」みたいなノリで無理やり会話に絡もうとすること。もう見てらんない。馬鹿かと、アホかと。せめて吉野家コピペ全盛時代の過去ログを百時間読み直してこいと。50円やるからその席譲れと。

 よろしいかオタク気取りのパンピーども。スカイプで喜んでいる雑魚ども。メッセどころかはるかICQの時代にまでさかのぼって歴史を学べ。ニコニコ動画で騒いでいるゆとりども。2ch閉鎖騒動をリアルで体験したあの恐怖に想像を及ばせろ。mixiで日記を書く前にテキストサイトの歴史を知れ。オタリーマン? ろじぱら? 笑わせるな! 我ラやFGHの時代こそが日記系の黄金時代である!

 と、最近の恥知らずな「自称オタク」への鬱憤をぶちまけてみました。失礼失礼。ちなみに私は浪人も留年もしていない現役の学生であって、年齢はそれほどではないのです。それなのに、ということでオタク歴の長さは推して知るべし。

 さて、短コンの投票とドラクエ祭の小説書かないと……。

ちぇー

 更新しないと広告張るぞ! って運営に脅されたので仕方なく書くこともないのに更新します。

 さっきニコニコの新着を見ていたら上がっていた神動画を紹介しておきます。コメントと再生を見てもきっと伸びずに沈むんだろうけど、あんまり気に入ったのでマイリストに入れておきます。

 地味にBGMも神がかって良かった。センスに惚れる。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm1545402

盗作について

 心機一転、なんてタイトルをつければその後しばらくは更新する気力が湧くかなーと思ったんですが、そもそも書くことなければなにも変わらない、と気づいた。

 盗作という話はいつだってあるんですけど、盗作に対する意識の低さは近年に特有のものなのかもしれないなあと思った。一億総作家時代って誰かが言ってたけど、いまはたいていの家庭にパソコンがあるし、パソコンがあれば小学生でも小説が書ける。書いてしまえば発表の場はネットに溢れている。そうして「ケータイ小説」とかが出てきて傾向に拍車がかかる。

 私もそういう時代の人間だからなんとも言えないところはあるけど、むかしは小説を書くのは結構な労力だったんじゃないか、と思う。原稿用紙に文字を書く、というのはタイプするより手間がかかる。書きあがっても誰も読んでくれない、発表の場がない。そりゃあ、小説を書く人は少なかったことだろう。

 それでも小説を書くには強い意志が必要だった。そうそう感想ももらえない、滅多に褒めてももらえない。孤独な作業の果てに報いはない。それも挑むなら「小説を書く」目的は「小説を書く」あるいは「なにかを表現する」に限った。それを承服した上であるなら、盗作の意思は介在しようがない。

 でも今は違う。「表現する」ことではなく「感想をもらうこと」「賞賛を得ること」を目標とした小説執筆がありえるようになった。だからそのためなら「小説」そのものをないがしろにしてもいい、という論理がまかり通るようになってしまった。

 盗作に対する意識の低さ、盗作へのハードルの低さは、倫理観の十分に育っていない子供が小説を書くようになったことと、小説の執筆がコミュニケーションツールとしての側面を持つようになったことにある、ということを考えました。

 ただの屁理屈。
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